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福岡高等裁判所 昭和35年(う)551号 判決 1960年7月20日

被告人 久富六郎

主文

本件控訴を棄却する。

理由

同(検察官の)控訴趣意第一点(事実誤認)について。

論旨は要するに、原判決は、本件強盗未遂の犯行(公訴事実第二)を中止犯と認定しているが、森山笑子の司法警察員に対する昭和三十四年十一月九日附供述調書、被告人の司法警察員に対する同年十二月四日附及び検察官に対する同月二十一日附各供述調書によると、被告人が右犯行を思い止まるに至つた直接の原因は、被告人としては被害者森山忠男方を商店と思い、金が相当あると見込んで同人方に入つたところ、予期に反して同人は商店経営者でなく、僅少の金しか持つていなかつたゝめであることが認められるので、被告人としては予期どおりの金が存しなかつたという外部的障碍のため犯罪の遂行を妨げられたのであつて、内部的原因により任意に実行を中止したのではないから、本件は障碍未遂である。被告人の心事に幾何かの憐憫があつたとしても、それは右のような客観的事情に基因するものであるから、これをもつて直ちに中止犯と断ずることはできない。原判決は、被告人の原審公判廷における哀れを感じた旨の供述のみに捉われ、これを過大評価して右客観的事情の存在を無視し、採証を誤り合理的判断を逸脱して事実を誤認したものである、というのである。

なるほど被告人の司法警察員に対する昭和三十四年十二月四日附供述調書によると、被告人は、森山笑子が「これだけしかない」と言つて現金百九十円位を差し出したのを見て「そのくらいではつまらん」「警察に言うな」と言つて外に出た旨供述しており、又森山笑子の司法警察員に対する同年十一月九日附供述調書によると、同人が二百円足らずの金を出すと被告人はちよつと見たゞけでその位では何にもならんと思つたらしく、「今夜はこれで許すから絶対に外にもらすことはできんぞ、もらしたら二、三日中に仕返しに来る」と言つて出て行つた、ということであるので、これ等の証拠のみによると、被告人が本件犯行の遂行を思い止まつたのは、予期に反して被害者の所持金が僅少であつたゝめであると見られないこともない。しかし右各証拠に、更に原判決挙示の被告人の原審公判廷における供述及び森山忠男の司法警察員に対する同年十一月九日附供述調書等を綜合して考察すると、被告人は、森山笑子が別に一万円余を蔵置していることを秘匿して「これだけしかない」と言いつゝ現金百九十円余を被告人の前に差しおいて「これをとられたら明日米買う金もない」と涙を流すのを見て、一面憐憫の情を覚え、右現金には何等手を触れないで同人方を立去つた事実が窺われるので、被告人としては、予期に反して被害者等の所持金が僅少であつたゝめばかりでなく、他面森山笑子の嘆きに憐憫を覚えて飜意し、犯行の遂行を思い止まるに至つたものと推認されるのみならず、殊に右認定のとおり、被告人がその前に差しおかれた現金百九十円余について、これを奪取できない特別の事情も何等認められないに拘らず全然手を触れないで立去つた点から見ると、単に予期のとおりの金が存しなかつたゝめというよりは、むしろ右憐憫の情に動かされて犯行の遂行を飜意したに因るものと解される。果してそうだとすると、被告人が本件犯行の遂行を中止したのは、単に所論のような外部的障碍のため犯罪の遂行を妨げられたというより、むしろ右のように憐憫の情を催した被告人の自発的な任意の意思に出でたものと解するのが相当である。従つて被告人の本件所為は障碍未遂ではなく、まさしく中止未遂というべきであるから、原審が挙示の関係証拠により被告人の本件犯行を中止未遂と認定したのは相当であり、記録を精査するも原審の証拠の取捨判断に何等違法不当の廉なく、もとより事実誤認の違法も存しないので、論旨は理由がない。

同控訴趣意第二点(量刑不当)について。

論旨は、原審の刑の量定は著しく軽すぎて不当である、というのであるが、記録によつて窺われる被告人の年齢、性格、経歴及び本件各犯行の動機、態様並びに犯後の情況等に鑑みると、所論の諸事情を充分参酌しても、原審の刑の量定をもつてあながち軽すぎて不当であるとすることはできないものと思われる。従つて論旨も理由がない。

よつて刑事訴訟法第三百九十六条に則り本件控訴を棄却するこゝし、主文のとおり判決する。

(裁判官 青木亮忠 木下春雄 古賀俊郎)

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